サンスイ AU-9500の話 (11)


工業製品、特に大量生産される民生用製品に使う部品を選択する際には、アマチュア工作の部品選択においては考慮外のことを、いろいろ考えなければならない。

  • セカンドソースがあるもの以外は使っちゃならん
  • あるメーカーの部品を使う予定があるから、値段交渉を有利にするためこの部分もこのメーカーのを使うこと
  • このメーカーはこないだトラブルを起こして出入り禁止にしているので、使っちゃならん
  • ある部品が大量に安く出回ってるのでできるだけこれを使うこと
  • ある部品のストックが大量にあるのでこれを使わなきゃならん
  • 自動マウント機の制約でアキシャル型は使えない
  • 自動マウント機の部品スロットの数の制約があるからこことここの部品は同じのを使うこと
  • ディスコンの部品を使うなんてもってのほか、論外

などなど。


上のようないろいろな条件はそのほとんどが、部品のコスト、製造コストをどうやって下げるか、ということが目標になっている。10万円以下くらいの民生用量産品の場合、日本の大きめのメーカーでの仕切り値段の目標は7掛けくらいか。これには利益の他に販売費管理費サービス費研究開発費などの固定費が載っていて、工場出しの原価としては定価の3掛けくらい。59,800円のアンプがあったとすると、工場の利益と管理費組み立て費部品代を合わせた値段がおおよそ20,000円。金型代みたいなもの(1台あたり1000円〜数千円か?)もあるから、実際に部品に使えるお金はいいとこ1万数千円程度か。大きな会社の中で、管理費みたいなものを削減するのは大変だから、勢いプレッシャーは部品代にかかってくる。


企画台数が10万台だとすると、原価を100円下げると利益が1000万円上乗せされる。1000万円といえば、気の効いた外注に6人月分くらいの仕事を外注できるし、そこそこのレベルのエンジニアを1年雇うことだってできる。


感覚的には、ある機能や性能のために、部品価格に1ドル(約100円)の差が出るとすると、これをどうするか、を決めるためには大々的な会議が必要になるだろう。数10円の差だと、現場の設計担当者が熱心に報告書を書き上げれば通るかもしれない。10円だったら最後にばれて削られるかもしれないけれど、こっそり潜り込ませられるだろう。


こういったプレッシャーのもとで、1円、10銭の単位で部品のコストを切り詰める、性能と価格のバランスを常に反省する、というのはもしかしたら比較的新しいやり方で、使う部品の性能や機能については価格など他のパラメーターとは別扱いにする、というのがもともとの工業のあり方であったような気もする。性能を別枠で考えれば、「この性能を出すためにはどうしてもこの価格になってしまう」というのが理屈として通用する。この頑丈さでこの精度のカメラはこの値段になってしまう、というわけで、ライカやツァイスといった高級機はいつまでも高く、安い価格帯のカメラは価格だけを追求した普及品ばかり、だったのかもしれない。


性能に関する議論と価格に関する議論とをまぜこぜにして、「この価格でそこそこの性能を出せないだろうか?」「金型を使ってもっと安くもっと大量に売れるようにすることで、価格と性能のバランスを取れないだろうか?」などと考える、部品の性能を他のパラメータと同じ土俵の上のトレードオフとして考える、というのは戦後の日本独自の考え方かもしれない。こういった考え方で設定された新しい性能・機能・価格のバランスを持った商品は、良い物は高くて一部の人向け、安いものは性能が悪くてがまんして使うもの、という状況に安住していた世界中の工業生産地図を一気に塗り替えてしまう。高いけれど本物のカメラを作り続けていたライカやツァイスは、日本製のずっと安くほとんど本物に見えるカメラに追われ、写真産業の主流から脱落してしまう。


戦後の日本光学は、ツァイスに範を取りながらも、廉価な硝材でいかに性能を出すか、という点に腐心したという。使う材料や部品に性能が依存しない設計、あるいは組み立てる人に性能が依存しない設計、これこそが安定した品質の本物に近い商品を、廉価で、安定して供給できたポイントだろう。


当然ながら性能目標も、究極の部品を究極の技で組み立てて初めて得られるようなレベルには設定しない。しかし一体、写真を生業とする人の、だれがそんな究極の解像力を持ったレンズを必要としたのだろう。必要とされたのは、ありふれた材料が、調整箇所が少なく(逆に言えば狂いにくい)誰にでも(工賃が安い人でも)組み立てられる工程でくみ上げられた製品だった。その性能は、それまでの基準では本物とは言えず、価格もそれまでの基準ではとっても安いとは言えない新しいバランスを持った商品で、その微妙なバランス感覚は世界3大現実主義者のひとつである日本人ならではの快挙かもしれない(後の2つはアメリカ人とイギリス人。僕が勝手に作った)。


本物だか安物なんだかわからない、実用品という新しいバランスを持った工業製品の、各分野での大成功は振り返るまでもない。成功、というのは、日本の経済的な成功にとどまらず、アフリカや東南アジアで元気に走り回ってるダッツンやトヨタのピックアップが果たしている南北間格差の低減だってそうだろう。


成功の鍵は、商品の機能や性能と、価格との間の微妙なバランスの見極めにあるから、機能性能が絶対的に優先されてバランスとか要らない医療機器、軍用機器での日本製工業製品の成功具合はせいぜい並みである。逆に、機能や性能に対する評価があいまいで、商品の使用結果を経験的実用的に判断する必要がある機材、例えばオーディオ、カメラ、果てはウォッシュレットみたいなもの、に関しての日本製工業製品の成功具合は絶対的で、ほぼ市場を占有する。オーディオは周波数特性だけではないし、カメラはチャート解像度だけではないし、ウォッシュレットなんて座ってみなけりゃわからない。




サンフランシスコ 2006年末
21世紀に入っても日本のブランドの製品でいっぱい



実用品生産に特化した工業システムはとにかく大成功だ。20世紀前半の軍事面に引き続き、工業生産という白色人種の発明による彼らの専売特許だと思われていた分野においても有色人種が白色人種を負かしまくった、ということで、産業革命以降数世紀にわたって続き、このまま未来永劫もうだめぽかと思われていた人種間差別に対して、精神的な終止符を打ち込んだくらい成功した。あまりにもありふれたMade in Japanというマークが果たしたこのあまりにも重大な終止符については、当の日本人が一番無頓着に見えるのだけど、世界中で、反米、反ヨーロッパ、反白人、を叫ぶ全ての人の精神は、日本という国の存在に支えられている、と思っていれば間違いはない。イラクもイランも、果ては北朝鮮まで例外なしだ。アメリカがイラク戦争への日本の参加にこだわる理由がここにもあるが、いずれにしても責任重大である。


話が思いっ切りそれた。そんな風に成功してしまったものだから、日本人は、自分たちの国で作れないものなんてない、全てのものは日本で作れる、と思った。そしてそれはほとんど正しかった。日本では、日本製(というか日本のメーカー製)の製品を使うだけでほぼ完全にup to dateな世界最先端水準の文化的な生活ができる。普通の日本人にとって、お店に行って電化製品を買うときに、どんなものでも自国製(あるいは自国のメーカー製)のものを買うのがデフォだと思う。ところが実は、そんな芸当が可能な国は世界中で日本しかない。


あれ、話がもどらない。微妙な実用バランスを持った日本製のオーディオ機器は日本を越えて世界の隅々に行き渡り、今でも日本のブランドのオーディオ機器で世界中の電気屋の棚は埋まっている。そんな中で、1990年代以降の日本では、オーディオ業界は斜陽産業あつかいで、倒産合併が当たり前の惨憺たる状況だ。同じようにデジタル化を経たカメラ業界が以前にも増して元気で、一眼レフカメラの出荷台数なんかはフィルムカメラの頃の台数を越える勢いであるのに、オーディオに関しては、高い海外製のアンプやスピーカーは売れるのに、日本製のものはさっぱり。なんでもつくれるはずなのに、これはいったいどうしたことだ。


オーディオだってカーオーディオを含めれば、とか、カメラに比べてオーディオ趣味には時間が必要でライフスタイルの変化により、とかいろいろな話はあろうけど、僕にはこれは、日本が目指した実用品オーディオがその馬脚を露呈した、ように見える。昨晩、サンスイAU-9500のパワーアンプドライバーPCBの増幅段2段目のエミッタ接地トランジスタを、2SC1941から2SC959に変更してみて僕は、日本の価格パラメータが猛威を振るう「実用品オーディオ」の限界に確信を持った。お、話が戻ってきたじゃないか。


To Be Continued.